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有平糖Aruheitou

alfeloa(アルフェロア)が語源の南蛮菓子の一つです

柴田飴本舗の特長の一つである『有平糖・あるへいとう』。
呼び方はその時代や土地がらによって少しずつ違っており、「ありへい」「あるへいる」「あるへる」などとも呼ばれていました。もともとはポルトガル語の「アルフェロア・砂糖菓子」が語源となっているので、様々な呼び方があって当然かもしれません。戦国時代、鉄砲伝来とともに数多くの南蛮文化が伝来しましたが、南蛮菓子もその一つで、今ではもうすっかり日本人の生活にとけこんでしまったお菓子もたくさんあります。例えば「カステラ」や「金平糖」などがそうです。『有平糖』も同じ時代に伝来し日本に定着した伝統的なお菓子の一つで、分類としては「飴」の仲間にはいります。

飴の中では高級品で独特な食感も楽しめます

いわゆる一般の飴(ハードキャンディ、ドロップ等)との違いは、砂糖の比率が高く湿気に強いため、細工菓子として様々な場面で重宝して来たという点と、なんといってもカリカリ、コリコリといった食感を楽しめるところが大きな特長です。一般的な飴は砂糖と水飴の配分が同じくらいになっているため、口の中でゆっくり溶かしながら味わうのに対し、有平糖は砂糖の含有が多いため結晶化しやすく、時がたつにつれ徐々に結晶化が始まり透明な姿がパステル色へと変わっていくとともに食感もコリコリとした感触に変化していくという特長があります。飴を引き飴(何度も引き延ばし空気を入れる製法)にしたものの食感は特にサクサク感が強く、普通のキャンディとは一線をかくす味わいがあります。砂糖の比率が高い有平糖は作業工程のどこで結晶化が起きるかわりません。とてもリスクの高い商品です。職人の長年の勘と熟練の技術を必要とする『有平糖』こそ、私たち小さなメーカーが守らなければならない菓子文化であり味なのです。

有平糖の様々な歴史的エピソード

権力者への賄賂にあるへいとう

1700年(元禄13年)、幕府の重職につく柳沢吉保が、日光輪王寺門跡公弁法親王を招待した時、吉保への贈物にアルヘイトウ一曲を賜った、とあります。柳沢吉保はこの頃、時の人といってもよいほどの権力を誇っていた人物であり、将軍へのお願いごとがある大名や、商売上の便宜をはかってもらいたい商人などが、日夜足を運んでやってきたりするほどだったそうです。南蛮伝来の『有平糖』はそういう場面にも登場していたようです。

破格の待遇をうけた あるへいとう職人

八代将軍吉宗公の時代、江戸城中でも有平糖がもてはやされていたようです。つくり手は『献上菓子御受納』を拝命し、羽織り袴に帯刀まで許されるという扱い。さらに、お城への登城も、他の商人らが使う通用門ではなく、表玄関から堂々と通行できるという、商人としては破格の待遇を受けていました。一介の菓子職人にとっては、日頃から鍛えた腕を見せる良い機会であり、最高の名誉でもあったのです。

キリスト教への勧誘にあるへいとう

1543年。この年はじめて種子島に鉄砲が伝来されました。それから6年後の1549年には、有名な宣教師フランシスコ・ザビエルがはじめて鹿児島に来日しました。その日から1639年の鎖国令までの約90年間に、実に多くの宣教師達が海を渡ってやってきました。その中でも、歴史上得にめだった存在が、ポルトガル宣教師フランシスコ・ザビエルであったり、ルイス・フロイスなのです。彼等はまったくの異文化をもつ日本人を、尊敬する一方で、文明の力をしっかりと把握していました。ですからキリスト教への引き入れの道具として、または日本人へのカルチャーショックの手段として、様々な南蛮製品を利用したのです。その中の一つに有平糖がありました。
『有平糖』は他の南蛮菓子とともに献上品として大名達にも送られました。当時では貴重だった砂糖からつくられた甘くて綺麗な細工菓子は、さらに珍しく大変貴重なものだったのです。伝来当時はその製法さえもシークレットだった『有平糖』は上流階級の人にしか手に入らない高級品であったことはまちがいないようです。

床屋さんのグルグル棒のルーツあるへいとう

昔西洋ではお医者さんが理髪店をかねていた時代がありました。当時彼等は人間の動脈と静脈を表す、赤と青の色を使って看板をつくりそれが今街で見かける床屋さんのグルグル棒のルーツになりました。明治の始めちょんまげを捨てた日本男性を相手に、たくさんの床屋さんが出来た時は、その名も「西洋理髪店」、「西洋髪結所」、「西洋髪挟所」、「あるへい床」と様々な呼び名があったようです。そして従来の髪結い所と区別できるように西洋の看板の影響をうけた赤、白、青のグルグル棒が登場したのです。一番初めに使ったのは、東京日本橋常盤橋あたりに開店した床屋さんで、その後徐々に広まり一般化したようです。グルグル棒の形状と色合いが、昔からある飴菓子「有平棒(有平糖)」に大変よく似ていた事から、いつしか「あるへいぼう」と呼ばれるようになりました。その後、お菓子の「あるへいぼう」はめっきり姿を消してしまいましたが、床屋さんの「あるへいぼう」は、今でもグルグルと回り続けているのです。

歌舞伎の隈取り「あるへい隈」の由来はあるへいとう

誰でも一度は見たことがある代表的な歌舞伎のお化粧も『有平糖』に由来した名前がついています。白塗りの上に赤と青の色どり(諸説あり)の化粧で「あるへい隈」というそうです。昔は赤、白、青の三色といえば『有平糖』というくらいに広く知れ渡ったお菓子だったのかもしれません。

こんなところにもあるへいとう

ほかにもこんなところにも名前がついています。

● 女性の髪形の一つに
昔まだ女性が平服として和服を着ていたころには、ねじれた有平糖のような形に頭の上に結いあげた髪形があり、それを「あるへい巻き」といったそうです。

● 童謡の歌詞のなかに
あまり有名ではないようですが、「お菓子の汽車」という昔の童謡があり、その中に『お菓子の汽車が急ぎます/ながい煙突/有平糖/つながる箱はチョコレイト‥‥』という歌詞が出てくるそうです。

● 剣豪小説のこんなシーンに
津本陽さんの小説「柳生兵庫助」のなかで数度『有平糖』が「アルヘイ」の名で登場します。主人公兵庫助はのちに妻となる少女にお菓子の包みを手渡す場面があります。そこで手渡されたお菓子が『有平糖』でした。